インタビュー特集

「Next Stage」前編(卒業生インタビュー)

地域みらい留学のnoteにて紹介された本校卒業生・山中瑞歩さんの声をお届けします。
地域みらい留学のウェブサイトも合わせてご覧いただければ幸いです。

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小学校3年生

瑞歩は、当時通っていた小学校の図書室で「ニッポンの嵐」という本を読み、隠岐島前高校の取り組みや、観光甲子園でグランプリを受賞した「ヒトツナギ」という旅について知った。瑞歩は、嵐の松本さんの大ファンである。そんな彼が、高校の位置する海士町を訪れ、温かく出迎える地域住民の方々との濃密な経験をされたことを知った時の驚きと言ったら、今後も忘れることはないだろう。

私の人生のターニングポイントには松本さんがしっかりと立っていて、私と隠岐島前地域を繋ぐきっかけを与えてくれたのだから…。

中学生

私は自分自身の性格について問われたり、初対面の大人の方や大勢の前で話したりする場面で「私って人見知りで口下手だ…」と自負することが多かった。今思えば、それは私自身を守るのに特化したお決まりフレーズのようである。
その一方で、クラスや学年には、小学校の頃から一緒で信頼のおける、お互いの頑張りを応援し合える仲間。所属していた陸上部には、責任感の強くて気配りが上手な憧れの先輩がいた。

習い事のピアノや書道を続け、合唱のピアノ伴奏や学級目標の筆入れなどを経験する機会が舞い降りるようになり、苦手であった自己表現することの喜びも知った。1年生の頃から学年運営に興味を持ち、議長や学級委員を経て2年生からは生徒会役員を務めるようになった。学校行事の司会進行や企画をする中で、組織の特性や規模に合わせた運営方法を考えることや、意見を論理立てて説明する力の大切さに気付いた。瑞歩の学年には、学校行事の度に学年でダンスを踊って盛り上げるという、心躍るような雰囲気があり、行事が近づくとダンスの曲を代表で話し合い、みんなで練習したものだった。

隠岐島前高校との出逢い

夏休みの5日間で、瑞歩は憧れの隠岐島前地域に魅了される。

やがて志望校の話題が飛び交うようになった3年生の夏、隠岐島前高校ヒトツナギ部主催の「ヒトツナギ(の旅)2016」が実施されることを知り、家族で旅行好きである瑞歩は、参加を決めた。

ヒトツナギ部員の個性が結集した手作りの旅では、豊かな自然と共に暮らす地域の方々の日常にお邪魔し、一緒に温かな時間を過ごしたのだった。島から本土へ向かうフェリーに乗り込み、見送りに駆け付けた部員の皆さんや地域の方々からエールの言葉をかけられたときは、ここはまた帰れる故郷なんだと一人、確信していた。それから間もなく、瑞歩の志望校の選択肢に、隠岐島前高校が加わることになった。

“決めた、私は隠岐へ行く!隠岐島前高校に行きます”
<2016/11/20日記より>

 

中学校では、面接や小論文対策が始まった。瑞歩は、添削された文章と自分自身の本心との間で妥協する大変さを思い知った反面、まだ見ぬ島前地域での挑戦に思いを馳せていた。

“全然come up withしないよ~。(全然思いつかないよ~。)どうしよう。コミュニケーションって、行ってみなきゃ分からないよ!”
“(面接対策してるけど、意見に対する理由の説明が難しくて焦る。実際に面接官と話してみないと、本当のコミュニケーションが出来ないのに!)”
<12/29日記より>

 

試験をいよいよ受けるとなった時、合格祈願のために北野天満宮に向かった。
“心の中で隠岐に対する色が透明なブルーに変わったのが分かる。ほんまに。やから、もう全力でやるしかない!”
“(北野天満宮に合格祈願にお参りをして、心が安らいだのが自分でも分かる。この調子で、全力で試験に挑むしかない!)”
< 2017/1/7日記より>

 

自分自身の中での対話を重ねる中で、「多様な価値観を持つ仲間との共同生活を通して、自分の価値観を広げ、コミュニケーション力を高めたい」「ヒトツナギ部で、旅の企画を通して島前地域の魅力を発信する側に立ちたい」という思いが固まった。

試験の道中では、悪天候でフェリーの欠航が相次ぐなどのハプニングに見舞われて自然に生きる大変さを思い知ったが、無事合格することが出来た。

高校生

目覚まし時計のアラームより大きい、牛の鳴き声で目覚めることもあった。お隣の西ノ島には馬も放牧されていて、知夫里島には島民より多い狸が暮らしている。私の住んでいた鏡浦寮は海を見下ろす高台に位置しており、季節によって移り変わる海の色を楽しみに、歩いたものだった。

ヒトツナギをきっかけに出会った先輩たちは、地域の方々と私との懸け橋のような存在で、「新入生」だった私に「島前高生」「島留学生」「鏡浦寮生」という称号をすぐさま与えてくれた。農作業のお手伝い、海釣り、お祭りへの出店、音楽会の練習などで、休日もめまぐるしく過ぎていく。楽しいこともあったが、不慣れな生活リズムに体が悲鳴をあげることも少なからずあった。自分自身が対処できるボーダーラインを意識することの大切さを思い知った。

“人と人の間の色んな板挟みになって、辛いよ。この能力活かせないのかな。”
<2017/6/10 日記より>

 

私の住んでいた海士町では「ないものはない」というスローガンを掲げ、都会にあるような娯楽や便利な店舗はないものの、生きていくのに必要なものは全てここにある、という特性をユニークに伝えている。その言葉通り、多種多様で伝統的な行事が催され、地域に生きる人々の精神的な拠り所となり洗練されているようだった。それらの行事には、私たち島前高生が企画したり委託される場合が多く、大人の方と意見交換したり多様な価値観を持つ仲間と協働したりすることが、初めて日常的な出来事となった。

島出身の方や、地域起こしに情熱を懸けるIターン者など多種多様な経験をされた方々と交流するなかで、いつしか私なりの物事の判断軸が備わるようになった。独りよがりで頑固な軸なのかもしれないけれど、直感的に惹かれる物事や他者との関わり方などを豊かにしたいという思いが強くなった。

<後編につづく>

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