インタビュー特集

次世代の農業の担い手にとってのモデルになりたい(生徒インタビュー/後編)

藤田一休さん

取材時3年/卒業後、新規事業主として地元・広島で就農予定

前編はこちらからご覧ください
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– 3年間お世話になった島親さんはどんな存在?
私ほど島親制度の恩恵を授かった生徒は今までいないと思います(笑)。

本物の家族のような存在です。島親さんはかつて有名旅館の厨房に立ち、今は海士町で民宿勝田荘をお一人で営んでおられます。日常的な関わりとしては、その民宿のお手伝いをしてきました。掃除・洗濯などはもちろんのこと、ある時は料理の手解きをしていただくこともあり、いつの間にか私が揚げた天ぷらや焼いた目玉焼きがお客様に提供されることもありました。イベントでも関わることが多く、ヒトツナギの旅に協力してくださったり、2018年は離島での野外音楽フェス『AMA FES』で勝田荘と高校生のコラボで屋台を出して一緒にコロッケを作ったりしました。(写真は勝田荘の玄関口にて)

また、知々井地区の漁師さんのところへの仕入れに同行させてもらったと思えば、ドイツから海士町に移り住んだ農家さんのところへ一緒に卵を買いに行ったりと、地域と関わる機会を惜しみなく提供していただきました。一番印象的だったのは、当時は町長だった山内元町長の民宿あざ美荘の新年会にお手伝いとして参加したことです。まさか100人分を越えるお刺身の盛り付けをさせていただくとは思いもよりませんでした。

私は地域を愛し、勝田荘を愛し、島親さんを愛し、その料理を愛しました。島親さんには本当によく面倒をみていただき、また地域からも身に余る恩恵をいただきました。私と地域はいわば相思相愛のような関係だと思います(笑)

《余談》
学校では校長先生が「地域に愛される学校」宣言を打ち出しておられます。島前高校ならではの素敵な宣言だと思います。ただ、愛されるための努力は必要ですが、そのことだけに集中して肝心なことを忘れてはないでしょうか? そう、私たち生徒や先生方が地域を愛することです。恋愛と似たようなもので、私たちが地域を愛しその姿勢が地域に伝われば、地域も私たちを愛してくれる、と私は考え、それを実践しました。愛されるためにはそういうアプローチもあり得るのではないか、と私は提起したいと思います。

 

– 一休は卒業後はどうするの?
地元広島で新規事業主として農業を始めます。
瀬戸内の温暖な気候を活かし、柑橘をメインに様々な作物を育てていきたいと考えていて、現在各方面から新品種の苗を取り寄せたり、事業を打ち立てるための情報収集に取り組んでいるところです。


– どうしてその進路を選んだの? どんなことを考えていたの?

実は1年前までは大学に進学するつもりでした。1年生の夏休み直前に「東大や京大は難しくても、その次の難関大学くらいは狙ってみてもいいのでは?」と担任から保護者面談で伝えられた、と父親が言ってきたので、私もそのつもりになっていました。でも、学年を重ねる毎に大学に行く魅力が薄れていました。大学を意識し始めた高校1年の終わり頃から、一体自分は大学で何を学びたいのか?という自問に自答することができずに悶々と悩んでました。

ある日、「高校を卒業したら、大学に行くことが一般的だけど、自分もその流れに必ずしも乗る必要があるのか? 大学なんて行きたい時に行けばいいじゃん」って考えたらとても気が楽になったんです。しかも「親のお金で大学行くより、自分のお金で大学行く方が得られるものが多いのかも」と考えたら、高校卒業後に大学を目指していた自分はいなくなりました。

大学に行かないのであれば、卒業後何をするか?という新しい問題がでてきたんですが、これは結構簡単に結論が出ました。

「自分の強みって何だろう?」「趣味で野菜作ってたし、寮の畑の土壌改良にも成功したし…」ということで、地元に戻って農業を始めることに決めました。裸一貫で事業を興すのはいささか不安があるので、「わしは広島のハーブ界の先駆者だ」と自負する私の父を相談役に、国や県、市など行政とも連携していこうと考えています。


– 農業をはじめるんだ。具体的にはどんなことをしたいの?
この事業の目的は2つあり1つ目が、「天神みかん」という今は市場から姿を消したブランドの復活です。天神みかんは競りにかけられる前にそのほとんどの出荷先が決まっていたくらいの最上級品のみかんでした。残念ながら今となっては幻でしかありません。

2つ目が、次世代の農業の担い手にとってのモデルになることです。私が農業経営者として成果を残すということが最終目標ではなく、あくまでその次の世代の人間をいかに農業の世界に引き込めるか、を一番大切にしたいのです。

この目的が達成される時がくれば私も満足できると思います。そして、その時は「海外」に目を向けるかもしれません。幼い頃から海外で働いてみたいという淡い願望がありました。その中でも東南アジア唯一の内陸国ラオスはもともと貧しい国ではありましたが、今ではその経済は格段に飛躍してとどまる様子を見せません。5年くらいラオスで働いてみたい、そして日本に戻ってきてラオスを日本人にもっと知ってもらえるような活動がしたい、こんなことを夢見ることもあります。ラオスは私の母の祖国でもあります。日本とラオスの血がこの体に流れている私にとって、両国の橋渡しになるのが理想です。そのためにも、まずは日本の農業界で成果を残したいと思います。次世代を育て、日本の農業を安泰にしてからでなければ、日本を飛び出すことはできません。

私はその遠大な挑戦にこの春から挑もうとしています。


– おもしろい!私たちも一休の挑戦を応援しています! いつか講演会講師として戻ってきてね。

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