インタビュー特集

当たり前が、かけがえのないもの(卒業生インタビュー)

本校には卒業生会として「家督会(あとどかい)」がありますが、昨年度に立ち上がった若手卒業生による「家督会青年部」が、今年度になってから様々な卒業生の声を集めるべく「あとどノート」をスタートしています。

本校が魅力化に取り組み始めてから11年目になりますが、卒業生たちが在学中にどのようなことを考えていたのか、いま改めて何を感じているのか、ぜひご一読いただければ幸いです。

下記の記事は、「あとどノート」の中に記載されている西ノ島町出身の近藤弘志さんの寄稿になります。ぜひ島の方々にも読んでもらいたいです。

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島根県沖に浮かぶ隠岐諸島、その一つ西ノ島、港がある別府の、ある商店の4番目として僕は生まれました。

父親もこの島で生まれ育ち、高校進学時に島を出たもののUターンをして家業を継ぎました。母親は、隠岐諸島で一番大きな島後という島の、(旧)五箇村の人で、島に嫁いできました。

祖父はぎりぎり大正生まれで、祖母とは遠縁の親戚だったとか…? 曾祖父も、高祖父もずっと島の人らしい。幼い頃から祖父から聞かされたことなのでどこまで定かかはわかりませんが、父方も母方もずっと隠岐の人なんだと思います。たぶん。

子どもの頃から、僕は島のことはそれなりに好きでした。
まぁそれでも高校を卒業すれば島を出るし、帰省はするけど戻って暮らすようになるのは老後かなぁなんて考えていました。

それが、高校生活を経てがっつり変わりました。

今まで ”それなり” に好きだったものが、”めちゃくちゃ” 好きになりました。「20代のうちに帰って、島でカフェを開きたい」。そう言って、東京の大学へ推薦を貰って進学し、全国のまちづくりを学んだり、実際に地方で暮らしてみたり、そこでプロジェクトに取り組ませてもらったり。そうこうしているうちに、好きな地域がたくさんできました。

でも、島に対する「好き」とはちょっと違う。いや、だいぶ違う。僕は、島がめちゃくちゃ好きなんじゃなくて、島のことを誇りに思っているんだ。

ヒトツナギや隠岐國学習センターの「夢ゼミ」はめちゃくちゃ特別な経験だと思います。

でも、それはあくまできっかけでしかなくて。
家族で島の中をドライブした経験も、近所のおばちゃんたちとボランティアに参加した経験も、夜中に酒臭いおっちゃんたちが家に来て換気扇もない部屋でタバコふかしながら町の取組みや未来について語っていたのを眠い目をこすりながら聞いていた経験も、祖父の交友関係や家系自慢を聞いていた経験も…

学校からの帰り道も、友達と一緒に何個もつくった秘密基地も、おでこを3針縫う大けがをした雨上がりの公園のうんていも、運転免許を取得してから運転が楽しくて友達を乗せて何時間もドライブした車道も、そのままみんなで寝ころびながら星を見た駐車場も…

「おぉ、ひろしくん、今日はどした??」って声をかけてくれるお店の人も、会うたび会うたび「ひろしくん、おっきくなったねぇ」と言ってくれる近所のおばあちゃんも、「お店の手伝いしてるの? えらいねぇ」と言ってくれる配達先のおじちゃんも、「ひろし元気にしとっか?」と声をかけてくれる友達や先輩や後輩や先生も…

先祖代々続く血も、土地も、建物も、全部ひっくるめて…
田舎だったら当たり前かもしれない。

でも、僕にとってはそんな当たり前が、かけがえのないものなんです。

この町のために、とか
この人のために、とか
夢を叶えるために、とか
島が無くなりそうだから、とか
「○○のために」っていうのは、実際には表面上にしかなくて。(嘘をついているわけではないけど、芯ではないという意味です)

僕の根底にあるもの、それは小さなころから築かれてきた集合体で、島が好きだという気持ちで、誇りです。

写真は、僕が一番好きな島の風景です。
この写真は、僕の家がある別府が写っています。隣の島にある高校の帰り道。本来の登下校の道とは違いますが、人とすれ違うこともほとんどなく、夕方になれば陽が沈むところも見れて結構おすすめです。

写真で見るとほんとに小さな地域です。
でも、ここに僕の芯となるものが全部写ってます。
“島” があるから、近藤弘志が近藤弘志たる由縁です。

だから、こんな感じで “島” と繋がるのがどことなく嬉しいし楽しいんです。

近藤弘志(1994年1月生まれ 西ノ島町・別府出身)

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